今回は「骨を折る」というエピソードになります。
ある日、老齢の親が介護施設で骨折をした
普通に考えると、何が原因で、誰がどうしてそのような状況になったのかと考えてします。
えっ!原因を究明してはだめなんですか!?
そうそう!〝祈り人〟として、エネルギーをつかうのはそこじゃないのかもしれないね。
「なぜ?」「どうして?」という考えは、人を責めたり、自分自身さえも(「あのときこうしていれば」といった感じで)責めてしまい、ものの考え方がかたくなってしまうかもしません。
祈り人に「なんで? はない!」
人を責めたりするよりも、この自分にとって都合のわるい出来事さえも受け止めようとしてみることがいいかもしれないよね。
受け止めきれないかもしれません・・・
受け止めきれなくてもいいんだよね。ただ、ありのままの出来事が起こったのも自分の人生だと思うことなのかな。
親が骨折したときは、子が骨を折ってみる
えぇ!自分も骨折するんですか!?
捉え方をやわらかくしてみよう!
骨惜しみという言葉が日本にはあるよね。親の代わりに、人のために労力を費やしたり、身を粉にしてなにかに取り組むという意味でとらえてみてはどうかな?
なるほど・・・少しだけ祈り人の世界が見えてきたような・・・
「原因を追究」して、人をうらんだり、人を責めたりといった「どうしてこうなるの!?」というエネルギーを浪費するよりも、起こった出来事も自分の人生にとって必要な「ちょうどいいできごとなんだ」と捉えるうちに、気づき、学びが生まれるのかな。